「自己紹介とピースボート乗船への思い」
地球一周の船旅 第三回派遣代表 斉藤智美
この度、PP@Tamaの「地球一周の船旅 若者派遣プロジェクト」の代表に選ばれました、斉藤智美と申します。私は八王子市に住んでいます。生まれは南大沢で、小学2年生から現在まで隣町の別所で家族と暮らしています。小学校中学校と地元の公立学校に通い、高校は都立町田高校普通科へ、そして、今は駒澤大学仏教学部仏教学科の三年生です。
■小学校・中学校のころの私
私は小学校高学年の時、友達関係が上手くいきませんでした。仲間はずれにされたりドラマでありそうな嫌がらせも受けました。けれど、そうなった原因は私にもあったので今はその事を不思議なくらい恨んではいません。
小学校での記憶があまり無いので、深く説明する事が難しいのですが、当時、私は家族ともギクシャクしており、わがままで非常識な子供でした。正確に言えば、幼稚園時代から友達関係をいまいち上手く築けませんでした。一番、酷かった時期が先に書いた、小学校高学年の時です。私だけではありませんでしたが、クラスでは浮いてしまい感情の起伏が激しい子供でした。自分の思い通りにならない事にイライラしたり、友達の思いがけない行動に気持ちが悪くなり立っていられない程ショックを受けたり、色々ありました。けれど、いつからか、こんな事になったのは、自分の行動のせいであり、また、クラスメートも異常に友達関係を気にする年頃だったからだ、と思うようになりました。そして、小学校を卒業したら友達から好かれる人間になろう、大人になろう、自分を変えよう、という思いを抱きました。
その思いは、中学校へ引き継がれました。私の母校である別所中学校は、別所小学校と秋葉台小学校の2校の生徒が進学します。そのため、新しい友達に出会える事が出来ました。また、小学校の時、いざこざのあった何人かは、この中学校には進学しなかったため、私は、なおさら今までの自分を変えるチャンスだ!と強く思った事を覚えています。何を、変えたとか努力したとか言うわけではありませんが、人の真似で良いから友達を作れるように自分を磨く事に徹しました。そのおかげか、私は中学校で少しだけ「変わる」事が出来ました。
一つ、分かる理由は、周りも私も少し大人になった、ということでしょうか?以前のような、女の子の独特の密な友達関係に悩む事も無く、私を友達として好きになってくれる人が出来ました。また、それと同時に私も友達を大切にしよう、という思いを持つようになり、多くはありませんが今も交流のある友達と出会える事が出来ました。
■高校時代のモヤモヤと晴れ晴れとした卒業
その状態で、私は高校に進学しました。町田高校は都立で唯一、普通科と家政科がある高校で、自主自立を校訓とした自由な高校です。私は、干渉される事が大嫌いなので、自由な高校に進学できて幸せでした。制服の無い新しい学校生活に、私はすぐ馴染みました。
ところが、思いもしない事で私は悩み始めました。それは、高校の友人が「粒揃い」である事、そして勉強がつまらなくなってしまった事です。町田高校普通科の生徒は、中学校時代にトップの成績だった人も通うような進学校でした。そのため、ほとんどの人が、当たり前のことが当たり前に出来る人でした。その反面、普通過ぎて面白みが無い、と言ったら失礼ですが、良い人以上の何かを持っていない人が多いことに気付いたのです。もちろん、他の人から見れば私も同類だったかも知れません。けれど、少なくとも在学中に、私は「自分って変わってるかも?!」と何回も考えました。
何も言わないけれど、結局は成績や部活、人によっては恋や友達関係といった自分の事だけを考えていて、自分に不利になりそうな事には、適当になる人が多かったのです。私も、自分が一番可愛いという思いは持っています。おそらく、ほとんどの人間がそうでしょう。けれど、私にはその淡白な人間関係が、時につまらなくて仕方がありませんでした。学校をやめたいと、真剣に考えた時もありました。もっと、熱く語れる友達が欲しい!、時に喧嘩も出来る友達が欲しい!、と思ったのです。
しかし、何度そう思っても学年や学校の雰囲気は私1人の力で変わるものではありません。いつしか、私は学校全体に対し、そういった思いを抱いても自分が疲れるだけだと考えるようになりました。諦めたというか、全体に期待するよりも、自分を思ってくれる友達をもっと大切にしたほうが、自分にはあっているかもしれないと思ったからです。
私は高校に入って勉強についていけなくなりました。とにかく、勉強がつまらなくて仕方ありませんでした。サボったりはしませんでしたが、授業もテストもとにかく苦痛でした。幸い留年はしませんでした。しかし、本当に酷い成績でした。周りはなんだかんだ言って勉強をする人達。どうして、こんなにヤル気が起きないのか、自分で自分に問い続ける三年間でした。そんな、自分に対する不安もあったせいか、在学中は、心の底から楽しい!と思える高校生活ではありませんでした。
そんなモヤモヤした高校時代でも、良い事もありました。こんな私を理解してくれる友達が、出来たのです。彼らとは、学校や家族の悩みを話しました。そして、友達も私を励ましてくれたり、私に悩みを打ち明けてくれたりしました。しかも、その友達とは、今も深い交流があり、私の事を本当に信頼してくれているのです。自分でも、正直ビックリしています。あんなに、友達関係が苦手だった私が、友達から「さっぴーと友達になれて本当嬉しいよ。」、「色々な事を熱く語れる友達はあなただけだよ!ありがとう。」と、言われたりするようになったのです。
私の悩みを真剣に受け止めようとしてくれる友達や、いつも馬鹿騒ぎ出来る友達・・・少ないながら、素晴らしい友達に出会えました。たまに、特有の?淡白な言動や行動に不満がある時もありますが、それは、私も理解しなければならない事なのだと思います。
悩む事が多かった高校生活でしたが、卒業する時、私の町田高校に対する思いは、とても良いものでした。生徒同様に淡白で話しの通じない一部の先生方、都立一古くて汚い校舎、私には難しすぎる授業、行事を面倒に思う一部の生徒・・・。嫌な部分が多いのに、何故か私は晴れ晴れしていました。それは、中学時代から更に自分が変化した事、先に書いた友人に出会えた事、そして進路に納得出来たからだと思います。
■大学へ 仏教学部との出会い
進路、これは誰にとっても大切な事です。なおさら、大学進学希望者が90何パーセントの母校では、特に重要でした。私は、成績が悪かったので、大学に行きたい!という強い思いに、私の学力が追いつかない状態でした。私は、何か受験勉強という勉強が合わない、とにかく合わない、と思い続けていました。けれど、それと同時に、今まで何人もの人が受験を同じような方法で乗り越えているのに、こんな事で私はどうするんだ!、しっかりしろ!、という思いに駆られていました。
そんな状態で、私はたいして学力も伸びないまま、冬を迎えていました。そして、センター試験の一週間前、自分の学びたい学問は「社会学」だと思っていた時、何故か駒澤大学のパンフレットを見たのです。学部の欄で、仏教学部と言う怪しげな名前を見つけ、「駒澤は仏教の学校なんだ、へぇ〜」と言う軽い気持ちで、学部紹介を眺めました。その時、自分は本当に社会学を学びたいのか?、もう少し良く考えたほうがいいのではないか?、という思いを抱き、この学部に少し興味を持った事を覚えています。なぜなら、私は社会学と言っても、宗教学や宗教文化、宗教心理学を学びたいと思っていたのですが、宗教学を専門とする学部は日本の大学には無く、社会学は何でもありの学問なので、先生によって勉強する内容がまったく違い、もしかしたら自分の興味のある勉強が出来ないかもしれないと感じていたからです。しかし、いくらなんでも仏教学部はないだろうと思い、何度も何度も学校案内を読みました。受けられる授業も教授の専門分野も、希望していた社会学部と比較しながら読み尽くしました。その結果、偏りはあるものの自分の勉強したい分野はデリケートな学問のため、逆に宗教を専門とするこの学部で勉強したほうが学びやすいかもしれないと言う考えに至りました。
しかし、この事実をどう両親に伝えればいいのか悩みました。就職率が悪くなる事は必死ですし、近所の人に何故?と言われる事も、間違いないと思ったからです。私は、恐る恐る両親に伝えました。その時、大喧嘩中だった事もあり、かなり強引な言い方をした気がします。母は、なんともいえない表情をしていました。しかし、予想していた反応ではなく、ある程度の理解をしくれました。
結局、私は試験日を迎え、見事?この学部に合格しました。その時点で、浪人しようとか、もっと勉強すれば良かったという気持ちはありませんでした。むしろ、この学部で宗教学を勉強したい!と強く思っていました。両親も戸惑いながらも、この決断を応援してくれました。この時、私の両親に対する気持ちが、少し変わったような気がします。
■家族と私
私は、友達関係だけでなく、家族とも上手くいきませんでした。特に荒れていた小学校時代、私は父が大嫌いでした。よく覚えていませんが、勉強の事でいざこざがあり、それ以来会話もしなくなりました。母も同じく、よく大喧嘩をしました。もともと、私は家族に絶対の信頼を寄せられませんでした。それは今も同じです。けれど、最近、少しづつですが、大学入学をきっかけに、私の家族に対する思いが変わり始めています。話しても話しても、私の気持ちを理解してくれない両親に、私は心を開けませんでした。やはり家族と言っても考え方は違うもので、今も時々大喧嘩をします。けれど、成人を迎え、それを無理に変えようとしても何も変わらないのでは?と言う気持ちが生まれるようになりました。その気持ちに両親も気付いたのか、何かあったら支える、という良い意味で、私に対して放任主義と言う形の信頼を寄せてくれるようになりました。私もまだ、上手く接せられていない部分もありますが、以前より、両親と話したり出掛けたりするようになりました。今回、第三回目の派遣者に選ばれた事を伝えた時、両親は「あなたにもやっと春がきたね!」と喜んでくれました。それは、先に書いた今までの私を見て、変化していく自分を祝福してくれた言葉だと思います。
■三宅島とモイヤー先生
私は子供の時、自然に興味がありました。毎月、高尾山に登ったりキャンプに行ったりする団体に所属したり、また、三宅島に行って、海の素晴らしさに魅了されました。特に三宅島には強い思いがあります。小学校5年生から中学校2年生まで、毎年夏に三宅島を訪れていました。約3週間、先生やスタッフさん、見ず知らずの同世代の子供達と生活を共にし、素晴らしい三宅の自然を満喫するプログラムでした。ここで、私は、ジャック・T・モイヤー先生という先生に出会いました。先生との出会いは、私に自然の美しさを教えてくれるきっかけになりました。三宅島への思いはとても熱いのに、噴火以来、私は島を訪れていません。また、モイヤー先生は帰島できない事を悩み、自ら命を絶たれました。それは、センター試験の丁度十日前。私は、しばらくその活動から遠ざかっていた事もあり、お葬式に行けませんでした。でも、私はその事を後悔しています。小学校で上手くいかない時、自然に興味がいっぱいだった私を、とても喜び大切にしてくれた先生にお別れできなかった事を、本当に悔いています。だから、私も先生も大好きだった三宅にまた行き、素晴らしい自然をこの目でまた見たいと強く思っています。また、今後の三宅島に携わるボランティアや仕事にも興味があります。
■「自分を変える」進行中
たびたび、私は「自分を変える」と言う表現を用いてきましたが、それは現在も進行中です。
未だに拭いきれていない事があるからです。例えば、男性と話す事が苦手な事、人を信頼できない事です。小学校時代に、女子だけでなく男子も色々と荒れていました。私はその時、一部の男の子を怖いと思いました。それが、なぜか未だに忘れられません。女性とは中学校高校で、仲良くする事が出来るようになりました。けれど、男性は、中学校時代も小学校と同じような行動をする人を目の当たりにし、なぜか苦手というか怖いという印象を、拭い切れませんでした。
また、未だに人を心の底から信頼出来ません。また、子供の時みたいに裏切られるのではないか?、影で悪口を言われているのではないか?という思いが、今も強く残っています。高校時代も、この思いに悩むことがありました。クラスや部活と言った団体行動が今も苦手なのは、昔の自分に戻るのではないか・・・という不安が頭の片隅から離れないからかも知れません。こんな事を考えてても、意味が無い!と何回も言い聞かせたのですが、やはり、そう簡単に忘れることは出来ないようです。けれど、人の性格や考えはそう簡単に変える事は出来ないもの。気長に治して行こうと思っています。
嬉しい事に大学に入って少しずつですが、男性の友達が増えてきました。また、今まで以上に深い話しが出来る友達と出会えています。まだ、私は「改造中」ですが止める事なく、自分を磨いて行きたいです。また、悩んだ学部についても、今の時点では大満足です。仏教以外の勉強も幅広くでき、周りも宗教の勉強をしたい人が多いので、勉強しやすい環境にあります。
■地球一周に向けて
最後にピースボートでの地球一周において、自分はどう活動するか?、何を目標とするか?と言う事を書きます。
私は、将来、沢山の国に行きたいと考えていたため、寄港地をしっかり見に行く事を、第一の目標とします。ありきたりですが、映像ではなく生の空気を、しっかり感じ取ってくる事を忘れないようにします。これは、簡単なようで難しいでしょう。テレビで見たものは、断片に過ぎません。寄港地がどんな場所だったか、自分の目に焼きつける必要があります。ある程度の下調べはしておき、面倒くさがらず色々なもの見て体験してきます。
次に、船内で興味のあるものに対して、躊躇せずにチャレンジして行きたいです。私は、団体行動、それも異様に密で集団を尊重する団体行動が苦手です。ですから、全てが私にあった体験ではないかも知れません。けれど、いつも思うのは、何事も始めの一歩を踏み出さないと何も分からないと言う事。何もする事がなかったり、興味がわかなくても、自分からアクションを起こす事は忘れてはいけない、と思っています。
それから、個人的に宗教文化に興味があるので、各国の文化やものの考え方を見つけるようにしたいです。それを活かした卒論を書ければいいなと思っています。また、英語を話す事に大変興味があるので、船内で英語を使う機会があれば、どんどん話したいと思っています。
そして、帰国したら母校の別所中学校はもちろん、多摩の中学校に行き、こんな身近な人間がこういった事を見て感じた!ということを分かりやすく伝え、一人でも多くの生徒さんが自分もこういった体験をしてみたい!といった思いや、地域の活動に興味を持ってくれたらいいなと思っています。また、個人的にですが、町田高校にも行き、こんな私でも色々なことを経験できて楽しんでいると言う事を、伝えたいと考えています。
おそらくピースボートでは、様々な考え方の人に出会うでしょう。驚いたり戸惑ったり、不快に思ったり嬉しかったり、新たな発見の連続になると思います。日本では体験できない全ての時間をどう受け止め、吸収し行動するか?、全ては、私にかかっています。未来の事は分かりませんが、おそらく帰国した時、私は「新たな私」になっているはずです。どのように変われるか、今から楽しみです。
応募エッセイ こうしたいTamaの未来
斉藤智美
私は生まれも育ちも多摩ニュータウンです。そして、多摩ニュータウンが大好きです。これからもこの地域に住んでいきたいと考えています。しかし、多摩ニュータウンは良い意味でも悪い意味でも、特殊な場所です。それがTamaの未来に大きく関わっていると私は考えます。
多摩ニュータウンに住むほとんどの人がどこか違う地域で生まれ、住んでいた人々です。ですから、この場所が私の地元であると言える人は、極一部の地元住民の方と私のような多摩ニュータウンで生まれた者です。そのため地域への愛着が他の地域の人々より少ないような気がします。また、歴史が浅いため著名な地域やお店などがありません。
ちなみに、私は商店街を利用する機会が無いまま今にいたりました。けれど、通っていた高校のある町田や現在通っている大学の周りには歴史を感じさせる商店街やお店、住宅街、公園などがあります。もちろん、これはおおまかな見解であって100%ではありません。
正直言って、ここで生まれ育った私は別に歴史が無くても綺麗なスーパーや綺麗な学校で過ごせたので、この事実をいやだとはまったく思っていません。けれど、こういった「造られた町」は思いのほかさびれるのが早いと思います。私が生まれた南大沢や現在、住んでいる京王堀之内周辺は少し、活気が無くなったかな?と思う程度ですが、ほかの多摩ニュータウンの地域では、昼間でもまったく人のいない住宅街や、空き店舗だらけの商店街(先ほど書いた「商店街」とは少し違うもの)を見かけます。
多摩ニュータウンと一口に言っても出来た年代が違います。その中でも古い地域は「多摩ニュータウン的過疎化」が起きているのではないでしょうか?古くなったマンションを売り、新しい場所に引越ししていく人々。それとは対照的に高齢の方は引越しせず、人がいなくなり始めた地域に住んでいらっしゃいます。なんだか、とても寂しいです。友達や家族がそばにいればいいかもしれません。けれど、1人で住んでいる方だっています。
今は怖い事件も多く、なかなか地域密着できない世の中です。もともと住民同士の付き合いが薄いこの場所で過疎化は禁物だと思います。家のドアを開けっ放しにしろ、とまではいいませんが、私は実践するべきだと思うことがあります。
今の日本人の多くは、自分を守ろう守ろうとして家のセキュリティを厳重にし、付き合いが面倒くさいからご近所の人とも交流をほとんど取らす、知らない人を見かけたら警戒する人が多くなっていると思います。確かにその考え行動はとても理解できます。「何かあっても、結局は自分でしなくてはならない。」この気持ちは充分に理解できます。しかし、その守りに入る姿勢は自分を狭くしていないだろうか?逆に過ごしづらくしているのではないか?と思うのです。
昨年の夏、私は一ヶ月間カナダに行きました。そこで強く感じたことは欧米の人はコミュニケーションを取る能力が日本人より優れているということです。すれ違い様にぶつかったら大体の人が謝ります。自分を狭くするからといって、家のドアをなるべく開けておく人にも出会いました。全てが良いわけではありません。けれど、優れた部分はまねてみる事も必要です。
話しがそれましたが、私がTamaに今もこれからも必要だと思うことは、人とのコミュニケーション、Tamaを愛する心だと思います。また、大変難しいとは思いますが、老朽化が進み住人が離れはじめた建物の再開発も重要だと思います。無理に人を集めるための商業施設やテーマパークなどを作るより、帰ってきてホッと出来る場所がTamaにはあっていると思います。私は都心育ちの友達に「八王子って田舎じゃない?」と言われても、「でも、住みやすいから私は好きなの。」と言い続けたいです。そのためには、Tamaを見捨てず、Tamaを良く知り、胸を張ってTamaを紹介出来るよう自分が行動していきます。小学生や中学生も自分と同じ母校の人間がこのような思いを持っていることを知れば、もしかしたら「なるほど!」と思ってくれるかもしれません。これからのTamaを担える人々はたくさんいます。その人たちが少しでも地元を愛してくれることがTamaの未来を明るくすると私は信じています。私はTamaを帰りたくなる町にしたい!と強く思っています。
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